第1話 返しそびれた本
澪がその駅で降りたとき、時計の針は12時を少し回っていた。
改札はひとつ。駅員の姿はなく、切符を入れる木の箱だけが置かれている。屋根の先から落ちる雨粒が、空き缶の底を一定の間隔でたたいていた。
鞄の中には、返しそびれた本が一冊ある。
青い布張りの表紙。題名の金文字はほとんど擦り切れていた。十二年前、この駅の待合室で借りた本だった。
返却期限の紙には、子供の字でこう書かれている。
雨があがるまでに、返してください。
あの日は、帰るころには晴れていた。祖母に急かされて列車に乗り、借りたことさえ忘れてしまった。それから転居して、駅の名前も記憶の底に沈んでいた。
先週、実家の押し入れを片づけるまでは。
待合室の扉は、記憶よりも小さかった。
押すと、乾いた木の匂いがした。長椅子と古いストーブの間に、見覚えのない扉が増えている。すりガラスの向こうに、暖かな明かりが見えた。
扉には「雨の日の図書室」と書いた札が下がっていた。
「開いていますよ」
声に呼ばれて入ると、本棚の奥から白髪の女の人が顔を出した。カウンターには湯気の立つカップがふたつ並んでいた。
「返しに来るころだと思っていました」
澪は鞄を抱え直した。
「ずいぶん、遅くなってしまって」
「本には、人とは違う時計があるんです」
女の人は、責めるでもなく笑った。
窓の外では、ホームの端に紫陽花が揺れていた。花は青く、表紙の色に似ていた。
澪が本を置くと、挟まっていた栞がカウンターへ滑り落ちた。
薄い銀色の紙で作った、鳥の形の栞だった。
「それも、一緒に借りたんですね」
女の人は栞に手を触れず、カップを澪のほうへ押し出した。
「返す前に、最後のページを読んでいきませんか」