第2話 青い茶碗
姉が調査旅行から帰ってきた日のことを、私はよく覚えている。
大学二年の夏だった。私はまだ高校生で、昼過ぎまで寝ていた。
玄関の呼び鈴で起こされ、階段を下りた。戸を開けると、姉が大きな鞄を足元に置いて立っていた。日に焼けて、鼻の頭だけ赤くなっていた。
「ただいま」
姉はそう言ってから、横へよけた。
私もつられてよけた。
しばらく、二人で玄関の真ん中を空けていた。
「入らないの」
「うん」
姉は足元の鞄を持ち上げた。
持ち手の片方を誰かに渡すように浮かせ、それから持ち直した。
旅行は、大学の調査だった。
海沿いの集落で、古い家の間取りや暮らしについて話を聞くのだという。学生七人で、三日間。姉は出発前、居間の卓上に地図を広げていた。
私はその横で、借りてきたビデオを見ていた。
テレビの下には、ビデオカメラの黒いケースが置いてあった。いつもは棚の奥にしまってあるのに、その日は留め金が開いていた。
帰ってきた晩、姉はよくしゃべった。
宿の夕飯に大きな魚が出たこと。石段が多く、足が痛くなったこと。潮が引くと、下にもう一つ集落が見えたこと。
「そこ、降りたの」
「うん」
「潮が戻ってきたら危なくない?」
「石段に手すりがなくてね。滑るから、荷物を持ってもらった」
母が麦茶を足すと、また魚の話に戻った。
食後、旅行の土産をもらいに姉の部屋へ行った。
姉は床に鞄を広げ、着替えを洗濯籠に移していた。最後に鞄を逆さにすると、畳に黒い砂が落ちた。
「新聞、取って」
机の脇から古新聞を渡した。姉が砂を集めると、畳に濡れた跡が残った。
姉は、部屋の戸を閉めなくなった。
それまでは、私が漫画を借りて戸を開けたまま出ると、必ず閉めろと言った。帰宅後は、夜も握り拳ほどの隙間を残していた。
一度、廊下を通ったついでに閉めたことがある。
すぐに中から開いた。
姉は私を見て、それから私の肩越しを見た。
「何」
「閉まってたから」
「俺が閉めた」
「ああ」
姉は戸を押さえたまま、私が階段を下りるまで立っていた。
妙なことは、ほかにもあった。
台所でコップを二つ出し、一つを食器棚に戻す。
誰もいない廊下で足を止め、壁際に寄る。
机に向かっている姉に話しかけると、人の話を遮ってしまったような顔をする。
「誰かと電話してた?」
「してないよ」
机の上に電話はなかった。
当時、電話は階段下に一台あるだけだった。
旅行から一週間ほどたった夜、姉に電話が来た。
私は居間でテレビを見ていた。姉は初め、笑いながら話していた。
「まだ筋肉痛」
「うん。焼き増し、お願い」
それから、相槌が少なくなった。
「七人だよ」
「写真にも、七人いるんでしょう」
私はテレビの音を小さくした。
「じゃあ、誰に渡したの」
長い間があった。
「私も、渡した」
電話を切ったあと、姉は二階へ上がった。
やがて私を呼び、旅行に持っていった鞄を逆さにした。
ノートや領収書を一枚ずつ確かめ、ポケットの裏地まで引き出した。私も懐中電灯で中を照らしたが、何もなかった。
「何探してるの」
「借りたもの」
「誰に」
姉は返事をしなかった。
黒いビデオカメラのケースは、机の脇にあった。
「それじゃないの」
私が指すと、姉は初めて気づいたようにケースを見た。
留め金を外し、開けた。
中にはカメラと、折り畳んだ青いタオルが入っていた。
姉はタオルを広げた。端のほうに、白い糸で名前が縫ってあった。
私には読めた。
読んだはずだった。
姉が急にタオルを畳んだので、私は何も言えなくなった。
その頃、私は一度、姉の部屋で変な音を聞いている。
借りた漫画を返しに行くと、姉は机に伏せて眠っていた。
戸の隙間から声をかけたが起きなかったので、漫画を床に置いて帰ろうとした。
背後で、椅子を引く音がした。
振り返っても、姉は眠っていた。
椅子は姉が座っている一脚しかなかった。
廊下へ出ようとしたところで、すぐ前の床板がきしんだ。
私は右へよけた。
誰も通らなかった。
ただ、部屋の奥で、もう一度床が鳴った。
翌朝、そのことを話すと、姉は味噌汁の椀を置いた。
「誰かいた?」
「いなかったよ」
姉は何か言いかけてやめ、自分の隣に重ねてあった皿を、流しへ運んだ。
母が食器棚を整理したのは、それから何日かあとのことだった。
夕飯の支度を手伝っていると、母が青い縁の茶碗を出して、私に尋ねた。
「これ、誰のだっけ」
底が深く、ほかの茶碗より一回り大きかった。
「お父さんじゃないの」
「お父さんのは、これでしょう」
父は帰りが遅く、夕飯を一緒に食べる日は少なかった。父の茶碗は、盆の上に箸と一緒に用意してあった。
母は青い茶碗を裏返した。
「ずっとあったわよね」
「うん」
私はその茶碗をよく知っていた。
ご飯をよそうと、縁の青い線が見えなくなる。食べ終わると、底に小さな魚の絵が出てくる。
自分で使ったことはないのに、そこまで知っていた。
姉が台所に入ってきた。
母の手から茶碗を受け取り、しばらく底を見ていた。
「捨てないで」
母は少し驚いて、「捨てないわよ」と言った。
夏休みが終わる前、姉は押し入れからアルバムを出した。
私が居間に入ると、畳の上に何冊も広げていた。
旅行の写真かと思ったが、子供の頃のものだった。
海水浴。運動会。正月。
姉は写真を一枚ずつ指で押さえていた。
「これ、覚えてる?」
小学校に上がる前の私が、川岸で泣いている写真だった。
片方の足に靴がない。
「靴、流したとき」
「誰に取ってもらった?」
「お父さん」
姉が次の写真を指した。
同じ川岸で、父が私の頭にタオルをかぶせていた。足元には、取り戻した靴が二つ並んでいる。
「お父さん、泳げなかったでしょう」
そうだった。
父は水が苦手で、海でも膝より深いところには入らなかった。
写真の端に、誰かの腕が写っていた。
濡れた半袖から伸びた、細い腕だった。
私はそれを見て、川の水の冷たさを思い出した。
靴を拾ってもらったあと、怒られると思って逃げたことも。
濡れた手で首の後ろをつかまれ、笑いながら引き戻されたことも。
顔だけが出てこなかった。
姉は、アルバムの最後までめくった。
写真の間に、何も挟まっていない透明な袋が一枚あった。
「ここ、何が入ってた?」
私はわからないと答えた。
姉はその空いた袋を、いつまでも撫でていた。
翌朝、私は食卓に箸を並べた。
父の分を盆に置き、母と姉と自分の分を並べる。
それから、もう一膳出した。
手に持ったところで、誰の分かわからなくなった。
姉が台所の戸口に立っていた。
私の手を見ている。
私は箸を戻そうとした。
「出しておいて」
姉が言った。
「誰の」
姉は答えず、食器棚から青い縁の茶碗を出した。
ご飯をよそい、皿の重なった椅子の前に置いた。
そのとき、私はようやく思い出した。
姉が旅行へ出かけた朝も、私は玄関まで見送りに出た。
姉は大きな鞄を肩に掛けていた。
ビデオカメラのケースは持っていなかった。
門へ向かう姉に、私は言ったのだ。
「帰り、何時になる?」
姉は振り返らなかった。
代わりに、すぐ隣で男の声がした。
「日曜の夕方。鍵、忘れるなよ」
私はその人の顔を見上げて、うん、と答えた。
食卓で、箸の転がる音がした。
姉が顔を上げた。
「あ、おかえり」
私も顔を上げた。
今度は、誰に言ったのか聞かなかった。